ヒロ・ホンシュク

本宿宏明(ほんしゅくひろあき:ヒロ・ホンシュク)は1985年に横須賀米軍基地で音楽を教える仕事に就き初めてジャズに出会った。その2年後、87年1月に米ボストンに移住し、バークリー音楽大学に奨学生として入学。同年秋にニューイングランド音楽学院の大学院に奨学生として迎え入れられ、故George Russell(ジョージ・ラッセッル)、Dave Holland(ディブ・ホランド)、Bob Moses(ボブ・モーゼス)、George Garzone(ジョージ・ガゾーン)、Matthew Marvuglio(マット・マルブグリオ)、Thomas McKinley(トム・マッキンレー)などに師事した。また、在学中は同音楽学院のHonorsジャズクインテットのリーダに任命され、学院の代表としてニューイングランド地方を演奏して廻った。

1990年5月、本宿はバークリー音楽大学とニューイングランド音楽学院両校を同時に卒業する。バークリー音楽大学からはSumma Cum Laude(主席/最優等生)を受けパフォーマンス学科を卒業。ニューイングランド音楽学院からはAcademic Honors(成績優秀賞)とDistinction in Performance(演奏功績賞)を受けジャズ作曲学科を卒業。卒業後ニューイングランド地方やニューヨークで多忙な演奏活動を続けるかたわら、教育活動にも勢力的。母校ニューイングランド音楽学院、ロンジー音楽大学、ニューイングランド・インスティテュート・オブ・アートなどで教員を務め、ジャズ理論、インプロ、ジャズアンサンブル、さらにコンピュータテクノロジーなどのクラスを多く教えた。

本宿は1987年にニューイングランド音楽学院に入学して以来、作曲家/バンドリーダーである故ジョージ・ラッセッル氏のアシスタントを務め、卒業後も氏が引退するまでアシスタント・ディレクターとして生徒の指導に当たった。1997年に氏のワールドツアーバンド、「リビングタイム・オーケストラ」にフルーティストとして、またオーディオエンジニアとして正式に招聘された。II-V-I進行を使わずに調性の重力と言う概念を使うラッセル氏の「リディアン・クロマチック・コンセプト」は本宿の作曲法に深く影響した。

主な共演者は、Mike Stern(マイク・スターン)、Dave Liebman(デイブ・リーブマン)、Mick Goodrick(ミック・グッドリック)、Dave Weckl(ディブ・ウエックル)、Tiger Okoshi(タイガー大越)、George Garzone(ジョージ・ガゾーン)、Maria Schneider(マリア・シュナイダー)、Bob Moses(ボブ・モーゼス)、Tom McKinley(トム・マッキンレー)等。サイドマンとして25枚以上のCDに参加している他、本人名義のリーダーアルバムは5枚リリースされている。

1990〜91年独ベルリンに数回渡航し、エフェクターを駆使したアバンギャルド・ジャズ活動に集中していた頃、ブラジル、リオで著名な作曲家/マルチ楽器奏者であるPaulo Maragucci(パウロ・マラグチ)にニューイングランド音楽学院にて出会い、ブラジル音楽に興味を示す。92年にはSergio Brandão(セルジオ・ブランダオ)率いるManga-Rosa(マンガ・ホーザ)に参加し、本格的にブラジル音楽の洗礼を受け、以後自分の作品にブラジルのリズムを積極的に取り入れるようになる。また、多くのブラジル音楽家達のレコーディングやライブに参加するようになる。José Pienasola(ジョゼ・ピアノソラ)率いるJequere(ジェケレ)、Gustavo Assis-Brasil Group(グスターボ・アシスブラジル・グループ)、Teresa Inês Group(テレサ・イネス・グループ)、Gilson Schachnik Group(ジウソン・シャシニック・グループ)、Alfredo Cardim(アルフレッド・カルディム)、João Marcos(ジョン・マーコス)など。テレサ・イネスのグループでは、2000年と2001年のリオ・デ・ジャネイロ・ツアーに参加している。また、ジャズシーンではJazz Composers Alliance Orchestraの正式メンバーを1988年から務め、フルートと作編曲を務めている。

「阿の音バンド」は固定のバンドという概念ではない。1987年暮れに本宿が作曲活動に集中することを決意した時に生まれたアイデアは、ボストン在住のミュージシャンの名簿を作り、コンサートごとに用途別のバンドを編成するということだった。コンボ、アバンギャルド、ファンク、フュージョン、ビッグバンド。同じメンバーで違うタイプの音楽をするのを避けるのが目的でもあった。譜面が本宿のものであればあとはすべてアリという設定であった。ボストンでの阿の音ビッグバンドの成功が認められ、1990年6月に仏パリに客員指揮者として招聘された。1994年に「阿の音ビッグバンド」はBoston Blazing Jazz Orchestraという名義でギラ・ジルカがホストを務める京都ジャズフェスティバルに1週間連夜フィーチャーされた。

クラシック音楽の活動としては、仏パリにある、メシアンの教会として有名なParoisse de la Trinitéに呼ばれリサイタルを開いたとき、メシアンに捧げる自作の作品を自演した。

2010年、ニューイングランド音楽院時代に関わったブラジル音楽への関心に火をつけるミュージシャンと出会い、天啓のごとくRacha Fora(ハシャ・フォーラ)の結成を決意。ブラジル人ミュージシャンの繰り出すブラジルのネイティヴなリズムに乗ってフロントのフルートとヴァイオリンがジャジーなインプロを展開するという独自のフォーマットの完成を目指す。デビュー・アルバム『Racha Fora』制作中に東日本大震災の報に接し、急遽<さくらさくら>を追加、犠牲者への手向けとする。ボストンとNYを中心に活動を続けながらバンドのブラッシュ・アップに専念、結成5周年の2015年、記念アルバム『Racha S’Miles』(Jazz Tokyo) の制作と日本ツアーを敢行。記念アルバム『Racha S‘Miles』は、本宿の師ジョージ・ラッセルとラッセルを通じた心の兄弟子でもあったマイルス・デイヴィスの愛奏曲を中心に、ラッセル理論に則った本宿のオリジナルで固められた。録音にはマイルス・バンドの番頭格の友人デイヴ・リーブマン(ts,ss)も駆けつけ、ゲスト参加した。9月に敢行された日本ツアーでは東京JAZZ 2015に出演、NHKFMを通じ全国放送され、大きな反響を呼んだ。

各地のブラジリアン・ジャズクラブ巡りを経て最終公演のプリンスパークタワーホテルのメロディーラインには老若男女が詰め掛け、ツアーは大成功に終わった。翌年からはパンデイロ(ブラジルのタンバリン)をカホーン(箱型のドラム)に変え、さらにバンドのグルーヴ強化を狙っている。4人編成の「Racha Fora」だが、バンドの音楽性、ダイナミズム、グルーヴ、エンタテインメント性は傑出しているとの評価が定着しつつある。

演奏活動や教育活動に多忙な合間、本宿は自宅でプロジェクト・スタジオも経営する。主にデジタル・オーディオやMIDIシーケンスを扱う他、Metric Halo録音機材を現地搬入し多くのルネサンス音楽の録音などを手がけている。自分の録音仕事のヘルパーとしてプログラムしたMac用オーディオツールがアップルのサイトから無償で配布され、オーディオエンジニアの間で普及している。

Instrument

Flute/EWI